大愚庵と夢

 

 断片的な記憶のカケラをつなぎ合わせて、倉光大愚老師(倉光清・亡祖父)と大愚庵(東京・世田谷・深沢の家)について、「夢」紀行として、まとめてみょうと思います。私が小学校を卒業する頃までのことです。すでに50年から60年以上も前のことになります。記憶の奥にある古い井戸を覗き込み、深い底の水面に映る自分の顔を探すようなもの。自分の記憶だけを頼りに、時に迷い、不意に懐かしい場景が展開し、一服する、勝手気儘な「夢」一人旅です。

 祖父は昭和27年11月、深沢の大愚庵で享年68歳、帰らぬ人となりました。今は文京区の小石川植物園傍の檀家寺で静かに眠る祖父「大愚」です(故郷の鳥取にも分骨されました)。祖父倉光大愚と私が共に暮らすことが出来たのは、7年間でした。祖父は、私のことをこの上なく可愛がってくれ、動物園(上野)に連れて行ってくれたり、祖父の知人宅へも私をよく連れて出かけたことは、父母からも聞かされていました。なかでも公田連太郎翁(上馬)、村嶋酉一画伯(桜新町)、お二方の記憶は鮮明なものがあります。特に4~5才の頃、祖父に抱かれて公田連太郎翁の横顔に接した時に、何か不思議なそして強烈な印象を受けた記憶が今でも残っています。本に囲まれた机の上の原稿に、一心に目を通しておられた姿に、きっと幼心が非日常的な雰囲気を読み取っていたのでしょう。公田連太郎翁は、一生、官途にも民間の学校団体のいずれにもつかえず、いわゆる在野の学者として、ただ勉強の結果を出版して世に出し、あるいは公田翁を慕ってくる数少ない人たちに講述をされて一生を生き抜いてこられた方です。昭和37年に「漢学に対する深い学殖とすぐれた労作」を理由に朝日新聞社の朝日賞を受けられました。

 

 公田翁が辻雙明氏に、祖父について語った「倉光大愚老師のこと」(昭和40年10月発行帰一協会機関誌「帰一」第26号より)の一部を次に(原文通り)引用します。

 「世田谷においでになるころに、倉光大愚老師といって、宗海老師の法嗣(はつす)の方が御座いますね。あの方と・・・・・・」私がおたずねしかかると、「・・・・・中略・・・・・あの大愚老師という人はね、最初会ったときと、あそこへ行ってから のちとは大へんな違いですよ。それは、生活の問題とかなんとかでなく、境涯が、その二、三年会わない間にまるで変わっちゃいました。駒沢で会ったのと、それから至道庵でちょいちょい会っていたころとは。

 なんでもね、あれは話を聞くと、狭心症か何かになって、それで一時知覚を失ったのだそうですよ。それが不思議に生き返った。その拍子に、先にはわしは公案をたくさん知っている人であったけれども、今度は公案が身についたと言っていましたが、大へん変わりました。公案を知っているのと公案が身につくのとでは大へんな違いですね。

 ほんとうに病気のために大死一番したわけです。それから変わりましたな。変わった瞬間は知りませんが、とにかく至道庵でちょいちょい会っていた時代とはまるで変わったです。そのかわり、無能然としてきました。利口そうなものがなくなったですね。

 あれはね、文才がある人で、あれは元新聞記者ですから。針ほどのことを棒ほどに書く力も持っていた人でした。話がおもしろい人でね・・・・・」 このように公田先生は話された。

 

 

 

祖父と私